中山美穂さん葬儀、フランスから1人息子も駆けつけた 喪主の忍「自慢の姉でした」
54歳の若さで6日に亡くなった女優の歌手中山美穂さんの告別式が12日、都内の斎場で行われた。妹で女優の中山忍(51)が喪主を務める家族葬で、長男(20)もフランスから駆けつけた。来年に「お別れの会」を行う予定。 式の終了後、中山さんの公式サイトが更新され、忍のコメントなどが発表された。 「本日、青空が広がる清々しい天候の中、中山美穂の火葬を無事に終えました。葬儀は家族と事務所関係者のみで執り行われました。祭壇には、優しいピンクや清らかな白、明るい黄色の花々に加え、深紅のダリアがひときわ印象的に飾られ、美穂さんの情熱的で華やかな一面を思い起こさせるようでした。会場全体が色鮮やかな花々に包まれ、生前の作品や思い出の写真とともに、彼女の功績を皆で称える時間となりました。穏やかな雰囲気の中、故人を見送ることができましたのも、報道関係者の皆さまやファンの皆さまがご配慮くださり、静かに見守っていただいたおかげです。心より感謝申し上げます」。 そして、忍のコメントを続けた。 「姉を愛してくださったすべての皆様へ」として「おかげさまをもちまして、姉『中山美穂』の葬儀が滞りなく執り行われたことをご報告申し上げます。親族の希望で家族葬とさせていただきました。最近での、一番のお気に入りだったドレスを纏い、楽しそうに歌う姉の写真を中央に、好きだった色取り豊かな花々で飾っていただいた祭壇は、華やかでキラキラしていて、最後のステージのようでした。お別れまでのほんの数日間ではありましたが、子供の頃に戻って枕を並べ、姉の横顔を見つめながら眠りについたこの穏やかなひとときは、私の宝物となりました。そして、何より姉が幸せを願ってやまない愛する息子と、再会の時間をもたせてあげることができました。手を繋ぎ、そっと寄り添う2人の姿は、とてもとても幸せなものでした。静かに見守ってくださったマスコミ関係者の皆さま、ご配慮いただき本当にありがとうございました。姉は一生懸命な人でした。ちょっと頑固で、バカみたいに正直で、本当は傷付きやすい心を見せず、何があっても自分の責任だと、真っ直ぐ前を向く勇気がある人でした。自慢の姉でした。どうか皆さま、姉のとびきりの笑顔を空を見上げたその声を、その歌声を、その指先を、忘れないでいてあげてください。私にとって姉は『大好きなお姉ちゃん』であるとともに『みなさんの中山美穂』であり、「永遠のシャイニングスター」です。これからは皆さまが姉を思い出してくださる時、そのきっかけのひとつとなれますよう、その思い出があたたかなものでありますように、私も俳優として、より精進して参ります。見守ってくださいましたら幸いです。良いときも悪いときも別れ際に姉はいつも『じゃあ、忍、あとはよろしくね』と 軽やかに笑って去っていきました。最後の最後まで、、、。とても『姉らしい』と思われてなりません。生前の姉へ、あたたかな眼差しと、愛情をかけてくださり、心から感謝しております。重ねて御礼申し上げます。皆さま、本当にありがとうございました。 感謝の気持ちを込めて」。
飯島愛さん謎の孤独死から15年…関係者が明かした体調不良と、“暗躍した男性”の存在
“Tバックの女王”として一世風靡し、セクシー女優からタレントに転向後、女性からも愛された故・飯島愛さん(享年36)が謎の死を遂げて、12月17日で15年が経過する。20年3月29日に新型コロナウィルスの感染による肺炎で急死した国民的コメディアンの故・志村けんさん(享年70)とも親しいことで知られた飯島さんは、08年12月24日のクリスマスイブの日に東京・渋谷の自宅マンションで遺体となって発見された。36歳の若さだった。 死後、1週間経っていた孤独死。遺書がなかったことからさまざまな死亡原因が飛び交ったが、警察が行政解剖したが死因は特定できず、警視庁は肺炎と発表した。 「飯島さんは07年に体調を崩して、芸能界を引退。その後、芸能界復帰も噂されていただけに、飯島さんの死は芸能界を激震させました」(芸能ライター) 飯島さんは亡くなる1カ月前まで、東京・六本木「赤枝六本木診療所」の2階に住んでいた。飯島さんの主治医だった赤枝恒雄院長は飯島さんの死後、女性週刊誌の取材に「非常に精神的に追い詰められていた」と語っている。 「04年に体調を崩した飯島さんは当時、所属していた『ワタナベエンターテイメント』から赤枝院長を紹介され、死後、疑われた難病について、赤枝院長が自ら3回も検査したが噂された病気ではなかったことを明らかにしました。赤枝院長は飯島さんが精神的に追い詰められていたことは知っていましたが、その原因については把握していなかったようです」(女性週刊誌記者) ■第一発見者は健康茶販売会社の男 飯島さんと生前親しかった番組制作会社プロデューサーはこう話す。 「飯島さんの遺体の第一発見者だった男性は、飯島さんと金銭トラブルがあったと噂されました。その男は飯島さんがやろうとしていた大人のおもちゃ屋の出資者で、現在、ドバイで優雅に暮らしていると聞いています」 志村さんと飯島さんの共通の友人でもあるこのプロデューサーは、「この男性は稀代の詐欺師と呼ばれ、志村さんのパトロンという触れ込みで、飯島さんに接近。飯島さんの孤独死に大きく関与しているといわれています」と言う。 飯島さんは07年3月に「トマトジュースみたいな尿が出る」と体調不良を訴えて、芸能界を引退するも、その後、個人事務所のマネジャーだった人物が事務所の金を横領。その頃に前出のプロデューサーが紹介されたのが第一発見者の男性だったとのこと。 「この男性は健康茶販売会社をやっていて、その会社の広告塔が志村さんでした。志村さんに5000万円もするロールスロイスをプレゼントしたと吹聴してましたが、実際は金がないと志村さんに泣きついて、5000万円融資させたんです」(前出・芸能ライター) その男性は人材派遣会社の買収劇の際も暗躍し、濡れ手に多額の資金を手にしたと噂されるほか、さまざまな詐欺まがいのビジネスへの関与で名前があがっている。前出のプロデューサーは、「男性が行きつけにしていた都内の焼き肉屋に行ったところ、今年に入って来ていないと聞きました。飯島さんの名誉のために言いますが、Aと飯島さんは男女の仲ではなかったことは断言できます」と言う。 男性ファンを魅了し、人気タレントとして成功した飯島さんのご冥福を改めて祈りたい。 (本多圭/芸能ジャーナリスト)
Vernon Presley in His Last Words Reveals the Real Reasons Elvis Divorced Priscilla We All Suspected
In a recent exploration of Elvis Presley’s turbulent marriage to Priscilla Presley, insights from Vernon Presley, Elvis’s father and confidant, shed light on the real reasons behind their divorce in 1973. Despite the glamour surrounding their love story, the breakdown of their relationship was rooted in deeper issues. Elvis and Priscilla’s romance began in the late 1950s when Elvis, then a rising star, met the young Priscilla while stationed in Germany. Their relationship blossomed despite the challenges of Elvis’s fame, leading to their marriage in 1967. However, the pressures of celebrity life soon took a toll, and Elvis’s infidelities became a recurring strain. Priscilla, deeply aware of his extramarital affairs, struggled with feelings of isolation, which ultimately led her to seek companionship outside their marriage. Vernon Presley revealed that Elvis grappled with the constraints of marriage, finding it difficult to reconcile his free-spirited lifestyle with domestic responsibilities. This internal conflict, combined with the emotional distance created by Elvis’s demanding career and reliance on prescription drugs, contributed to the couple’s separation. Elvis’s erratic behavior and social life further complicated their relationship, leaving Priscilla feeling overwhelmed and unsupported. When Priscilla engaged in an affair with karate instructor Mike Stone, it marked a turning point. Her decision to seek fulfillment outside her marriage shocked Elvis, who was devastated by the prospect of losing her. Despite the heartbreak, the couple ultimately agreed to divorce in October 1973, handling the proceedings with surprising civility. Priscilla received a substantial settlement and shared custody of their daughter, Lisa Marie, signifying their commitment to co-parenting. In the years following their divorce, Elvis and Priscilla maintained a respectful friendship, supporting each other in their personal lives. Priscilla remained a vital presence even as Elvis faced health challenges, underscoring a bond that endured beyond their marriage. After Elvis’s tragic death in 1977, she dedicated herself to preserving his legacy, showcasing the lasting impact of their complex relationship. The story of Elvis and Priscilla ultimately serves as a poignant reminder of love’s resilience amid the trials of fame and personal struggle.
Vernon Presley in His Last Words Reveals the Real Reasons Elvis Divorced Priscilla We All Suspected
In a revealing exploration of Elvis Presley’s tumultuous marriage and subsequent divorce from Priscilla Presley, insights from Vernon Presley, Elvis’s father, shed light on the complexities of…
中山美穂さん「追悼番組」検討 親友芸人は亡骸と対面「寝ている姿と変わらない」
6日に自宅の浴室で亡くなっているのが見つかった歌手の中山美穂さん(享年54)の追悼番組・企画放送に向けて、テレビ局が動き出した。 中山さんが亡くなってから、ファンは在りし日の歌声を聞いて偲んでいる。各チャートに中山さんの楽曲が次々とランクイン。9日付のオリコンデイリーデジタルシングル(単曲)ランキングでも、「世界中の誰よりきっと」(2位)、「ただ泣きたくなるの」(4位)、「遠い街のどこかで…」(9位)、「You’re My Only Shinin’Star」(10位)と、ベスト10に中山さんの4作品が入った。 日本中から中山さんの歌声を聞きたい、出演作品を見たいという声が上がっていることを受けて、「複数のテレビ局が年末年始にも中山さんの追悼番組や企画を放送したいと考え、動いています。中山さんは過去にTBS『ザ・ベストテン』、日本テレビ『歌のトップテン』など歌番組への出演回数は多い。それらの出演シーンをまとめた番組や企画を作ろうとしているのです」(制作会社関係者) 10日には中山さんの親友とも言われるほど仲が良かったインスタントジョンソン・じゃいがブログを更新。「部屋に入ると、中央にあるベッドの上に美穂ちゃんは眠っていた。訃報を聞いてから初めての対面。分かってはいたことだけど、やはり泣いてしまった」と訃報後、初めて対面し、涙を流したという。 中山さんの様子は「今にも起きてきて『ちょっと、あんたたち何してんの?』と言いそうなくらい、いつもの寝ている姿と変わらない様だった」とも。「泣いているし、目の前にいるのに、やっぱり受け入れられずにいる。脳がバグってるようだ」といまだに受け入れられない思いをつづった。
《追悼》中山美穂さん、芸能界きっての酒豪だった 妹・中山忍と通っていた焼肉店店主は「健康に気を使われていて、野菜もまんべんなく召し上がっていた」
“ミポリン”の愛称で親しまれた元トップアイドルが早すぎる生涯を終えた。ステージで輝き、スクリーンでも才能を発揮した中山美穂さんは、時に奔放で、愛に正直だった。複雑な生い立ちゆえに追い求めた家族への愛情と晩年の孤高。一時代を築いたスターの人生を詳報する。【前後編の前編】 【写真】元夫で作家の辻仁成氏とのツーショット。他、過去に交際していた音楽家の渋谷慶一郎氏やベーシストの永田雄樹氏とのツーショットなども 「6月のデビュー日にツアーの楽屋を訪ねたとき、彼女は『これからもライブがたくさん決まっているんだ』と前向きに話していました。若い頃からまっしぐらに仕事をしてきたし、忙しくて悩んでいる暇もなかったんじゃないかな。『じゃあ、またね』、『今度、食事でもしようね』と交わしたのが最後の会話です。クリスマスには会えると思っていたのに……残念でなりません」 急逝した中山美穂さん(享年54)の宣伝担当を務めた元キングレコード常務取締役の竹中善郎さんは、デビュー当時から知る彼女との早すぎる別れを嘆いた。 華やかな美貌と歌声で一世を風靡し、多くの人に愛されたスターの訃報に日本中が悲しみに包まれた。中山さんが変わり果てた姿で見つかったのは12月6日正午過ぎ。その日は夕方から大阪市内でクリスマスコンサートを行う予定だったが、生前、彼女が何よりも楽しみにしていたステージに立つことはなかった。 「当日の朝7時頃、スタッフが送ったLINEが既読にならず、待ち合わせ時刻の9時になっても連絡がつかなかった。心配した事務所関係者が自宅を訪ね、浴室で動かなくなっていた中山さんを見つけたそうです。すぐに警察と消防に通報したものの、現場で死亡が確認されました」(社会部記者) 中山さんは、芸能事務所などが入る都内のビルの住居フロアにひとりで暮らしていた。発見された際、湯を張った浴槽の中で前かがみになり、顔を水面につけた状態だったとの話もある。 「8日に死因・身元調査法に基づく解剖が行われ、所属事務所が入浴中の不慮の事故だったと発表しました。遺体に目立った外傷はなく、玄関が施錠されていたことなどから、事件性はないとみられています」(前出・社会部記者) 12月1日、神奈川・横浜で行われたクリスマスコンサートで中山さんは『You’re My Only Shinin’ Star』や『世界中の誰よりきっと』など自身のヒット曲を熱唱。MCでは2025年に未公表の大きな仕事があることなどをうれしそうに語っていたという。 2025年のデビュー40周年に向けて、精力的に活動していた中山さん。彼女の近況を知る関係者は口々に「変わった様子はなかった」と言うが、彼女は人知れず葛藤を抱えていた。終の棲家となってしまった70平米の部屋で、希代のアイドルが最期に見た光景とは──。 「眠れない」と打ち明けていた 「中山さんは長年、子宮筋腫を患っていましたが、10年近く前に完治し、ほかに大きな持病はなかったそうです。健康には人一倍気を使い、お風呂にデトックス効果のある入浴剤を入れてリラックスするのが習慣になっていました。本を読みながら長時間つかることもあったそうです」(芸能関係者) 歌や撮影の仕事があるときは、風邪で喉を痛めることがないよう、人に会わないようにしていたほどプロ意識が強かった。一方で、若い頃はたばこを吸い、芸能界きっての酒豪で鳴らした。オフの日にバーをはしごするのは日常茶飯事で、仕事中にシャンパンやワインを飲むこともあり、本人も酔うと「100倍明るくなります。楽しくて楽しくてしょうがない」と語っていた。妹の中山忍(51才)と頻繁に訪れていた焼き肉店の店長が語る。 「忍さんはお酒を飲まないのですが、美穂さんはお肉にあわせて、よく赤ワインを召し上がっていました。銘柄にこだわりはなく、店がおすすめするセレクトワインです。健康に気を使われていたので、もちろん野菜もまんべんなく召し上がっていた印象です。 最後にいらっしゃったのは3か月ほど前。バンドのメンバーや関係者のかたたちと一緒にいらして、いつもと同じ様子でお元気そうにされていたので、今回のことには本当に驚いています」 気にかかるのは、亡くなった日の午前2時半頃に、中山さんが所属事務所の関係者に仕事に関するメールを送信していたことだ。2024年9月に出演したバラエティー番組で、中山さんは「なんかだんだん眠れなくなってきちゃって……」と不眠の悩みを打ち明けていた。 「MCのマツコ・デラックスさんが『寝れないですよ。最近本当に』と相槌を打つと、『起きちゃいますね。寝れないし起きちゃうし』と、体内時計の乱れを訴えていました。事故の日も状況的に入浴した時間は深夜3時頃とみられ、安眠障害や中途覚醒に悩まされていた可能性も指摘されています」(前出・芸能関係者)
Schockierende Wahrheiten enthüllt: Die 10 größten Lügen über Diabetes und mehr.
Schockierende Wahrheiten über Diabetes und weit verbreitete Mythen stehen im Zentrum eines neuen Aufklärungsvideos, das die gängigsten Missverständnisse über die Krankheit entlarvt. Diabetes betrifft weltweit Millionen von Menschen, und dennoch hält sich eine Vielzahl von Mythen, die zu Verwirrung und Unsicherheit führen können. Ein zentraler Punkt des Videos ist der Mythos, dass Diabetes nur bei Menschen mit familiären Vorbelastungen auftritt. Tatsächlich hat die Zahl der Diabetiker in den letzten Jahrzehnten stark zugenommen, und auch Faktoren wie Ernährung und Lebensstil spielen eine entscheidende Rolle. Ein weiterer weit verbreiteter Irrglaube ist, dass Prädiabetes automatisch zu Diabetes führt. Hier wird klargestellt, dass Lebensstiländerungen helfen können, die Entwicklung der Krankheit zu verhindern. Ein weiterer Mythos besagt, dass Diabetiker keine Süßigkeiten essen dürfen. Tatsächlich können Menschen mit Typ-2-Diabetes gelegentlich Süßes genießen, solange sie dies in Maßen tun und ihre Ernährung ausgewogen bleibt. Auch die Vorstellung, dass Diabetiker auf Alkohol verzichten müssen, wird widerlegt. Mäßigung ist der Schlüssel, und Diabetiker sollten auf mögliche Wechselwirkungen mit Medikamenten achten. Das Video bietet nicht nur Klarheit über diese Mythen, sondern gibt auch praktische Tipps zur Blutzuckerkontrolle. Dazu gehören ausreichender Schlaf, eine ballaststoffreiche Ernährung und regelmäßige Bewegung. Diese Faktoren tragen nicht nur zur Verbesserung der Blutzuckerwerte bei, sondern fördern auch das allgemeine Wohlbefinden. Die Aufklärung über Diabetes ist von entscheidender Bedeutung, um die Krankheit besser zu verstehen und Missverständnisse auszuräumen. Die Informationen aus dem Video sind ein Schritt in die richtige Richtung, um das Bewusstsein und das Wissen über Diabetes und seine Behandlung zu fördern.
中山美穂さんと同期「85年組」の森口博子 あふれる涙「ちょっと信じられない」
女優で歌手の中山美穂さんが6日、都内の自宅浴室で死亡しているのが見つかった。同じ1985年デビューで同期となる歌手の森口博子(56)は、生放送のラジオ番組で涙ながらに追悼。早すぎる旅立ちに、悲しみが広がった。 あふれる涙をこらえることはできなかった。BAYFM「KISS&SMILE」に生出演した森口は、放送中盤に「同期で同じレコード会社の(中山)美穂ちゃんが…亡くなってしまったというニュースが入ってきて、ちょっと私も信じられないというか」と中山さんの訃報にふれた。 続けて「ちょっと私も信じられないというか動揺しているというか、え~何でという気持ちでいっぱいです」と話していたが、次第に涙声に。そして「あまりにも突然で、私も気持ちの整理が…生放送なんですけど(整理が)つかなくて」と言葉を詰まらせた。 生放送中に突然入ってきた訃報。森口は「ラジオを聴いている皆さんも驚いていると思うので、まずは気持ちを落ち着けて、ラジオの前の皆さんと今ある時間を進めていきたい」と自らに言い聞かせるように語った。それでも「ただただ、美穂ちゃん、どうしちゃったんだろうという気持ちでいっぱいです」とぼうぜんと語り「私たちは50代。本当に、突然何が起こるか分からない年齢になってきました。美穂ちゃん、54歳。まだまだ若いです」と悔やんだ。そして「私の中で気持ちを通わせて、後でゆっくり美穂ちゃんとは私の中でお話しさせていただきたい」と悲痛な声で語った。 中山さんと森口の他、85年には多くの才能がアイドルデビュー。中森明菜、小泉今日子、松本伊代ら「82年組」と呼ばれた世代に負けない豊作の年と言われた。中山さん、浅香唯、おニャン子クラブの工藤静香、南野陽子は「女性アイドル四天王」とも呼ばれ、その他にも斉藤由貴、井森美幸、石野陽子など現在も活躍を続ける同期は多い。仲間たちも大きなショックを受けており、大西結花の所属事務所関係者は「大変憔悴(しょうすい)しており、言葉がない状態です」と様子を語った。
中山美穂さんと同期デビューの工藤静香、訃報当日の“悲痛なお願い”と田原俊彦を巡っての“すれ違い”の過去
ともに1985年(昭和60年)に芸能界デビューを果たした“同期”だった──。 《Instagramは、はしゃいでる写真やビデオがいっぱいなので、今回の突然の訃報はそんなところに追悼のコメントを並べられなかった》 ファンに向け、同期の訃報についてそのようなメッセージを送ったのは工藤静香。 「静香さんはスポーツ紙1紙のみに追悼コメントを寄せていますが、ファンクラブサイトでは、それとは別にファン向けのメッセージを出しています」(芸能プロ関係者) 「親友といっていい関係性だった」 12月6日、俳優・歌手の中山美穂さんが亡くなった。54歳だった。突然の訃報に世間やネット、SNSでは悲しみの声であふれている。それは中山さんが40年の月日を過ごした芸能界も同様で、多くの共演者やスタッフらが哀悼のコメントを発表している。 そのなかの1人、静香は中山さんと同じ1985年にアイドルグループ『セブンティーンクラブ』のメンバーとしてデビュー。同年に中山さんはTBS系ドラマ『毎度おさわがせします』でデビューしている。中山さんの初出演(ドラマ放送日)は1月8日、静香のレコード発売日は1月21日と、ほとんど同タイミングで芸能界に入った。ともに14歳だった。 「静香さんは最初のグループが振るわず解散した後、『おニャン子クラブ』に。 “ヤンキーキャラ”が受け、注目されるようになりました。 中山さんはアイドル歌手としてもヒットを飛ばし、デビュー年に出演した映画『ビー・バップ・ハイスクール』などで注目の新人女優に。1987年には出演したTBS系ドラマ『ママはアイドル!』で演じた役柄・中山美穂の愛称“ミポリン”がそのまま本人の愛称として定着しました」(芸能ジャーナリスト) その後、静香はおニャン子クラブの派生ユニット『うしろ髪ひかれ隊』で活躍し本格的にブレイク。中山さんと静香、そして南野陽子と浅香唯を加えた4人は“アイドル四天王”と称された。 「中山さんと静香さんの2人は1987年にフジテレビ系のドラマ『おヒマなら来てよネ!』で共演。それをきっかけに公私ともに親交を深めていきました。それはプライベートでも2人で遊びに行くような親友といっていい関係性だった」(前出・芸能ジャーナリスト、以下同) 1980年代後半から1990年代初頭にかけて、中山さんは当時全盛期だった男性アイドル・田原俊彦との熱愛が幾度となく報じられた。半同棲、ハワイ旅行などなど。そんななか……。
中山美穂さん 10年ぶり再会の長男が自宅での対面後に“即刻帰国”していた理由
「通夜にも告別式にも長男の姿はありませんでした。“自宅で最後のお別れをする”ことを父親である辻(仁成)さんも望んでいたようなのです」(中山さんの知人) 12月12日、中山美穂さん(享年54)の葬儀・告別式が都内の斎場で営まれた。実妹の中山忍(51)が喪主を務め、家族と事務所関係者ら約30人が参列したという。同日、中山さんの所属事務所は葬儀の様子をこう綴った。 《本日、青空が広がる清々しい天候の中、中山美穂の火葬を無事に終えました。葬儀は家族と事務所関係者のみで執り行われました。祭壇には、優しいピンクや清らかな白、明るい黄色の花々に加え、深紅のダリアがひときわ印象的に飾られ、美穂さんの情熱的で華やかな一面を思い起こさせるようでした。会場全体が色鮮やかな花々に包まれ、生前の作品や思い出の写真とともに、彼女の功績を皆で称える時間となりました。穏やかな雰囲気の中、故人を見送ることができましたのも、報道関係者の皆さまやファンの皆さまがご配慮くださり、静かに見守っていただいたおかげです。心より感謝申し上げます》 忍もこうコメントしていた。 《お別れまでのほんの数日間ではありましたが、子供の頃に戻って枕を並べ、姉の横顔を見つめながら眠りについたこの穏やかなひとときは、私の宝物となりました。そして、何より姉が幸せを願ってやまない愛する息子と、再会の時間をもたせてあげることができました。手を繋ぎ、そっと寄り添う2人の姿は、とてもとても幸せなものでした》 中山さんは作家・辻仁成(65)と02年に結婚して、パリへ移住。04年に長男が誕生した。当時のインタビューでは《私にとって今一番大事なのは子供。だから日常こそ大切にしたい》(『LEE』’12年4月号)と語るなど、長男を溺愛していた。 だが、14年に離婚。親権は辻が持ち、中山さんは離婚後、約10年間、長男と会っていなかったという。前出の知人が続ける。 「彼女からは“親権を譲ることが離婚を承諾してもらう条件だった”と聞いています。しばらくして彼女に会ったとき、『子供に会いたいけれど、もう会えないんだ……』と悲しそうな表情をしていたことを覚えています」 辻はパリで長男を育て上げ、20歳を迎えた。そんななか、中山さんが急逝――。訃報を聞いた長男がパリから駆け付け、中山さんと最後の時を過ごしたというのだ。 「実は長男が中山さんと日本で再会するにあたって、辻さんは長男のことを誰よりも心配したそうです。彼は日本のメディアが連日、中山さんの訃報を伝えていたことも知っていたために、一般人である長男を日本のメディアからできる限り守るべく、葬儀への参列ではなく、中山さんの自宅での対面を望んだともいいます。そして、取材陣に気づかれてしまうことも懸念していたようです。そのため、長男はすぐさま離日したと聞いています」(前出の知人) 忍は最後、こうコメントしている。 《良いときも悪いときも別れ際に姉はいつも「じゃあ、忍、あとはよろしくね」と軽やかに笑って去っていきました。最後の最後まで、、、。とても「姉らしい」と思われてなりません。 生前の姉へ、あたたかな眼差しと、愛情をかけてくださり、心から感謝しております。重ねて御礼申し上げます。皆さま、本当にありがとうございました。感謝の気持ちを込めて》 生前、長男との対面を望んでいたという中山さん。これからは天国から彼をずっと見守っていくはずだ。