1985年は新人アイドルの当たり年だった。
2月デビューの斉藤由貴が「卒業」で飛び出し、芳本美代子や松本典子、本田美奈子がこれに続き、7月にはおニャン子クラブがデビュー、そのなかから河合その子とうしろゆびさされ組が年内にブレークを果たした。6月には南野陽子や浅香唯もデビュー、南野は翌年、浅香は翌々年にトップアイドルとなる。また、翌年におニャン子に入った工藤静香も、翌々年にソロとして飛躍を遂げた。
そんななか、勝ち頭といえる存在が、12月6日に、54歳で亡くなった中山美穂さんだ。
同年1〜3月期のドラマ「毎度おさわがせします」(TBS系)で彗星のように現れ、6月に初主演ドラマ「夏・体験物語」(TBS系)の主題歌でもある『「C」』で歌手デビュー。エッセー集「なぜなら やさしいまちが あったから」(集英社)には、幼少期のこんな思い出がつづられている。
「70年代の大人びた歌謡曲を歌うことがなにより楽しかったため、歌手になると豪語してところ構わず歌っていた私は、無理だから静かにしなさいとよく制された」
その夢がかなったわけで、85年の大みそかには日本レコード大賞の最優秀新人賞も受賞する。この年、彼女の陣営は基本、賞レースに不参加だったが、レコ大の後援と放送が女優として縁の深いTBSというのもあって、これのみ参戦。いちばん大きな賞を、いわば一本釣りしたわけだ。
これにキレたのが、それまで数多くの新人賞を取ってきた本田。その夜は荒れまくったことを、10年後に取材した際、本人の口からも聞くことができた。
ただ「歌手・中山美穂」は翌年以降、最優秀新人賞にふさわしい快進撃を見せる。86年8月の「ツイてるねノッてるね」がオリコンで自己最高の3位を記録。その後、92年10月の「世界中の誰よりきっと」(中山美穂 & WANDS名義)まで、19作連続でベスト3以内をキープした。
94年の「ただ泣きたくなるの」では自身8作目の1位を獲得。また、96年の「未来へのプレゼント」(中山美穂 with MAYO名義)が6位を記録したことにより、デビュー年から12年間、ベスト10以内に作品を送り続けることとなった。
そのあいだ、音楽シーンの主流は歌謡曲からJポップへと移行。その変化に最もうまく対応した歌手でもある。
■主題歌と出演ドラマを両方ヒットさせる
では、彼女はなぜそれほどの成功を収めることができたのか。
理由のひとつめは「女優型」のアイドルだったことだ。
70年代前半から80年代前半にかけて、アイドルの主戦場は歌番組。ドラマや映画、バラエティーにも出たが、メインは3カ月単位で新曲を出す歌手としての活動だった。70年代に女優としてもヒット作を連発した山口百恵はむしろ例外的存在といえる。
そんな歌手メインのアイドルがしだいに飽きられ、80年代には女優業にも重きを置くアイドルが目立ち始める。薬師丸ひろ子や原田知世、そして、中山美穂や斉藤由貴、南野陽子である。この人たちは歌唱力だけでなく、歌のヒロインを演じているかのような表現力、いわば「女優力」によって、歌手メインの活動だった松田聖子や中森明菜にはない魅力を醸し出した。アイドルが飽和状態となるなか、それは大きな武器となったのだ。
特に中山は、主演するドラマや映画の主題歌を自ら歌ってどちらもヒットさせるという離れ業を次々と成功させていく。すでに各メディアが報じているように、その複雑な生い立ちもあいまって、80年代版の百恵みたいな存在だった。
一方、前出の本田美奈子は演技が苦手だと公言、歌手一本でトップを目指した。過激なセクシー路線で一定の成果はあげたものの、もし70年代に生まれていたら、岩崎宏美のような正統派のポップス歌手としてもっと上にいけたのではないか。
そして、ふたつめの理由は音楽的嗜好だ。
幼少期「70年代の大人びた歌謡曲」に夢中だった中山は、やがて洋楽も聴くようになり、特に米国のR&B歌手、ボビー・ブラウンに心酔した。この嗜好が筒美京平や竹内まりや、小室哲哉、角松敏生といった作曲家が生み出す洋楽っぽいサウンドにうまくハマったといえる。好きこそものの上手なれ、というやつだ。さらに、彼女の華やかな容姿や艶っぽい声質もそのサウンドとの相性が抜群だった。
昭和のアイドルとして世に出ながら、平成のJポップにも対応できたのはそこが大きい。その最大の成果が、Jポップ草創期を象徴するビーイングが手がけるWANDSとコラボした「世界中の誰よりきっと」だったわけだ。
ちなみに、レコ大の最優秀新人賞を争った本田美奈子とはその後も真夜中に電話をかけあうほど仲がよかったという。ただ、本田は2005年、白血病のため、38歳で死去。そして、中山も帰らぬ人となった。
■20人弱の同級生のうち4人が早世
そこで思い出されるのが、初代三人娘のことだ。江利チエミが45歳、美空ひばりが52歳でともに病死。江利が亡くなったとき、筆者は高校生で、英語の教師が授業をつぶして、雪村いづみも含めた三人娘の話をした。文化祭で落語を披露するような教師だったので、その語り口は味わい深く、個人的かつ世代的な郷愁が伝わってきたことを覚えている。
同世代の芸能人たちというのはある意味、それ自体がひとつのグループのようなもので、同じ世代の大衆にとっても青春の象徴なのだ。その誰かが欠けるというのは、自分の青春が遠い過去になったという気持ちにもさせる。
今回の訃報では、85年組をはじめとする80年代アイドルの魅力や思い出を語って郷愁にひたりたくなった人も多かったようだ。実際、ネットではそれが散見され、前出の最優秀新人賞一本釣りのエピソードに言及している人もいた。
そういえば、中山は84年の大みそか、自宅でレコ大を見ながら、歌手デビューしてそのステージに立つことを夢見たという。その年、最優秀新人賞を受賞したのは岡田有希子で、86年の序盤には中山との化粧品CMソング対決が話題になった。
しかし、その春に岡田は18歳で自殺。堀越高校の芸能コースを卒業した直後だったが、その同期には本田美奈子もいた。また、83年に歌手デビューした菊地陽子も同期で、32歳のとき、白血病で死去。さらに、岡田と同じ84年組である松本友里も同期で、こちらは42歳で自殺した。20人足らずの同級生のうち、4人が早世しているわけだ。
そこで考えてみたいのが、若くして芸能界で成功してしまうことの影響だ。中山のエッセー集「なぜなら やさしいまちが あったから」にはこんな記述もある。
「寝ないで仕事をし、寝ないで遊ぶ。毎日3時間以下の睡眠で仕事をしていた時期がありました。やればできたものですが、時間も曜日も日付もわからない毎日でした」
トップアイドルとして、歌もドラマもバラエティーもやり、田原俊彦との熱愛も報じられていた時期のことだろう。10代から20代にかけて、そういう生活をすることが心身に負担をもたらし、のちのちの寿命にまで関係してくることがないともいえない。日本に限らず、若くして成功した芸能人に早世する人が少なくないのは、見すごせない現実だ。
■「永遠のシャイニングスター」
そこをどこまで結びつけるかはさておき、同世代のアイドルに憧れだけでなく、感謝や尊敬の念を抱く一般人は多いだろう。なにしろ、自分がまだ学生として、将来を模索している時期に、世に出て仕事をして、責任感と緊張感を強いられる立場となり、ともすれば自分の青春を犠牲にしながら、同世代の青春を盛り上げてくれる存在なのだから。中山の死にショックを受けつつ、ありし日の映像を見たり歌を聴いたりして懐かしむ人が多いのは、何よりのはなむけだと思う。
葬儀の喪主も務めた妹の中山忍は、コメントのなかにこんな一節を入れた。
「私にとって姉は『大好きなお姉ちゃん』であるとともに『みなさんの中山美穂』であり、『永遠のシャイニングスター』です」
この姉妹がまだ若い頃、それぞれに取材したことがある者としても、時の流れを感じてしまう。「80年代アイドル」というものもこうやって過去の歴史に変わっていくわけだ。
とはいえ、誰にとっても青春の輝きは永遠だ。中山美穂とともに青春をすごした人たちにとって、彼女の輝きもまた永遠だろう。(一部敬称略)